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人気の神戸 グルメって?

それというのも、私は思春期以来ずっと自我の極桔にとらわれてそこから抜け出すことができず、このころになっても、依然としてもがきつづけていたのです。
 私は在日として生まれましたから、やはりアイデンティティの問題が大きくがらんでいました。
「私は何者なのか」「私は何を求めているのか」「何のために生きているのか」「私にとってこの世界は何なのか」「私は何から逃げようとしているのか」。
そんな答えの出ない問いに縛られて、どうにもならない状態になっていたのです。
 私の志していたのは政治学ですが、この学問はみずからの立脚点が定まらなければ、やはり見るべきものが見えてこないし、語るべきものも語れません。
そのために私は足踏みの状態のまま三十歳近くまで悶々としていたのです。
 そんなときに、私の恩師がドイツ留学を勧めてくれ、私は自分自身からの、そして日本からの脱出のつもりで、海の向こうに旅立つことにしました。
そのときに鞄に入れていったのが、『心』でした。
 曇天の下、暗い下宿に閉じこもって読んだ『心』は、胸にしみました。
この物語には、私の個人史と似たところがあるわけではありませんし、直接的な浄化になるわけでもありません。
ハ″ピーエンドではありませんし、むしろ救いのない物語として読めてしまいます。
しかし、先生の抱えている絶望的な孤独感、そして何かを求めてさまよっている「私」の姿の中に、深く考えさせられるものがあったのです。
 題名も非常に象徴的ではないでしょうか。
近代以前には、「心」というタイトルでは小説が書かれることはありえなかったと思います。
その意味でも、『心』はまさに近代人の心の深淵を描き出した小説なのです。
「自分の城」が破滅を招く私が『心』をドイツに持っていった最大の理由は、この小説が「人と人のつながり」というものについてこの先生とKのつながり、先生とお嬢さんのつながり、「私」と田舎の親たちのつながり。
当時の私は自我を持てあましながら、同時に他者とのつながり方についてもつかみかねていたのです。
 これは、自我にとらわれている人誰にとっても、行く手に立ちふさがる壁だと思います。
自我が肥大化していくほど、自分と他者との折りあいがつかなくなるのです。
 自我というのは自尊心でもあり、エゴでもありますから、自分を主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないという気持ちが強く起こります。
しかし、他者のほうにも同じように自我があって、やはり、主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないのです。
そう考えると、千も足も出なくなってしまいます。
 人によっては、「他者とのかかわりは表面的にしのぎ、本当の自分は隠しておく」といった方法が取れるかもしれません。
しかし、それができずに完全龍城する人もいるでしょう。
つつ走っていく自我を止められず、さりとて誰かに救いを求めることもできず、悲鳴を上げたくなっている人もいるのではないでしょうか。
 こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされたのですが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言っていいと思います。
当時は「神経衰弱」と呼ばれ、漱石の小説中に「キーワード」のように出てきます。
 漱石の「断簡(メモ)」の中にも、こんな言葉が見えています。
 「Self-cons(ふ()usnessの結果は神経衰弱を生ず。
神経衰弱は二十世紀の共有病なり」漱石自身も何度も神経衰弱になり、さらに胃潰瘍を引き起こし、一時危篤に陥っています。
ウェーバーも重篤な状態になって、精神病院に入院したことがあると言われています。
 では、肥大していく自我を止めたいとき、どうしたらいいのでしょうか。
そのことを考えるとき、私がいつも思い出すのは、精神病理学者で哲学者のカールーヤスパースが言ったことです。
ヤスパースはウェーバーに私淑していました。
その彼がこう言ったのです。
 「自分の城」を築こうとする者は必ず破滅するIと。
 これは私もそうだったのでよくわかるのですが、誰もが自分の城を頑強にして、塀玉局くしていけば、自分というものが立てられると思うのではないでしょうか。
守れると思ってしまうのではないでしょうか。
あるいは強くなれるような気がするのではないでしょうか。
しかし、それは誤解で、自分の城だけを作ろうとしても、自分は立てられないのです。
 その理由を究極的匹言えば、自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。
すなわち、人とのつながりの中でしか、「私」というものはありえないのです。
「相互承認」しか方法はない ちなみに、私が自我というものにハ″キジと目覚めたのは、十七歳のころだったと思います。
もちろん、そのとき「今日、目が覚めた」という自覚があったわけではなく、かなり時間がたってから、後追い的にわかったことです。
 野球をしていても、野原を走っていても、どこか昨日までの自分と違う。
それは、自分という存在を外から眺める意識に目覚めたということでしょう。
誰にでもそんな日があるのではないでしょうか。
このとき私は、自分がどんな存在として生まれてきたのかを詮索するようになっていたのです。
しかしそうすると、自分の人生は重いものにならざるをえないように思えて、暗い気持ちになってしまいました。
 そして、「吃音」という状態に陥ってしまいました。
母音で始まる言葉が出なくなり、朗読などをさせられると、立ち往生してしまい、途方に暮れてしまったのです。
そのときの気分を、いまでもときどき思い出すことがあります。
ちょうど水に潜って、水面が上のほうに見えているような感じです。
水面が見えているのにどうしても浮かびあがっていけず、息が苦しくてしかたがない、そんな息の詰まる感じです。
 私の両親は、子供に不自由な思いをさせまいと骨身を惜しまず働き、惜しみなく愛情を注いでくれました。
ですから、それまでの私は何の疑問も感じることもなく、漱石の『坊っちゃん』のように元気すぎるほどのやんちゃ坊主でした。
ところが、自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。
 結局、私にとって何が耐えがたかったのかと言うと、自分が家族以外の誰からも承認されていないという事実だったのです。
自分を守ってくれていた父母の懐から出て、自分を眺めてみたら、社会の誰からも承認されていなかった。
私にとっては、それがたいへんな不条理だったのです。
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